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詩人としてのモリス・地上の楽園の背景

詩人としてのモリス・地上の楽園の背景

詩人としてのモリス ウィリアム・モリスについてはデザイナーとしてや、それに基づく精力的な活動家のイメージが強い人物ですが、その一方で詩人としての一面も持ち合わせていました。 モリスは18世紀の英国で生まれ伝承されていたバラッド詩の形式で作品を綴りました。 長編「地上の楽園」 特に有名な作品として、1868年から1870年にかけて刊行された「地上の楽園」という叙事詩が挙げられます。 とても長く綴られた作品で、序詩と24編に渡る構成から成りました。 詩人としても名声を得ることになります。 この作品が非常に長編となったことを考察すると、モリスの掲げた理想とも繋がります。 生活と芸術を統一させようという思想や実践の源流を作ったモリスなので、地上に自分が楽園を作るという理想が短文にはまとめられないような言葉としてのアイデアが湧き出てきたのではないでしょうか。 地上の楽園の世界観としては、ヨーロッパで広く信じられたいた伝説の美と平和、不死に恵まれた地上楽園に基づきました。 スカンジナビア民が遠くから地上楽園を求めて旅をし、ギリシャの古代文明が残る都市を発見するという中世への憧れや理想郷的な思想が感じられる作品でした。 また、地上の楽園は14世紀に活躍したイギリスの詩人チョーサーの最後の最高傑作と呼ばれる「カンタベリー物語」に倣って作られたと言われています。 14世紀のイギリスの人間喜劇の世界を表現した作品でした。 そしてカンタベリー物語も同じく長編作品でした。 男女の恋愛物語が中心で、あらゆる職種の登場人物や精神性の話から下賎な話までと幅広く描写をされた作品でした。 この物語を好んだモリスは、実際に複雑な部分も多くあった妻・ジェーンとの関係性についても内心では大切にしていた部分が大きかったのかとも受け取れます。 また、下層階級に人なども多く登場するカンタベリー物語でしたが、庶民の欲望や理想などにもモリスが向き合う意思があったからこそ、その後の政治活動にも精力的に取り組めたではないかと考えられます。

刺繍作家としても活躍したウィリアム・モリスの娘・メイ

刺繍作家としても活躍したウィリアム・モリスの娘・メイ

メイ・モリスとは ウィリアムモリス の娘であるメイ・モリス。 メイは1862年に、ウィリアム・モリスと妻ジェーンの娘として誕生しました。夫妻が、モリスの仲間たちと共に作った新婚時代の新居であるベクスリーヒースのレッドハウス にて生まれます。 刺繍の手仕事 メイは、刺繍が堪能であった母親のジェーンと叔母であるベッシーから刺繍を学んでいました。 1885年には、父のウィリアムモリス が立ち上げたモリス商会の刺繍部門の代表を担います。 刺繍作家として様々なデザインを生み出しました。 例えばヤドリギの刺繍。ヤドリギの枝のしなやかな美しさを表現した刺繍です。 また、ハニーサックル(スイカズラ)というテキスタイルデザインも人気です。 成長するスイカズラの花や葉を使った彩りが豊かな作品です。 彼女が最初にデザインした「Honeysuckle(ハニーサックル)」は、 現在もMorris & Co.を代表するデザインの一つ。 メイのデザインも、父親のウィリアムと同様に自然をヒントにして生み出されました。 メイの刺繍はアートニードルワークという自由形式の手法が使用され、中世の英国のスタイルが用いられた刺繍技術は、メイの父であるウィリアムモリス が開発したとされています。 繊細な表現が実現する刺繍方法でした。 メイは英国のヘレナ女王の後援のもとに1872年に王立の縫製学校として設立されたRoyal School of Art Needleworkでも活躍を見せ、刺繍技術の発展に貢献しました。 縫製学校では、ウィリアム・モリス の妻・ジェーンの妹であるエリザベス・バーデンも1880年から技術指導者として貢献をしました。 また、刺繍作品の関連では、モリスが「地上の楽園」とも呼び完璧なライフスタイルの象徴とした屋敷・ケルムスコットマナーの寝室にもモリスの妻ジェーンとメイらにより、晩年のモリスのために美しく刺繍の装飾がなされました。 ケルムスコット・マナーのベッドには、...

友人と立ち上げたモリス商会

友人と立ち上げたモリス商会

モリスが立ち上げた、モリス商会 その前身となったのは1861年に設立された、モリス・マーシャル・フォークナー商会でした。 モリスを含めたバーン=ジョーンズやロセッティらの友人たち7名が集まります。 19世紀当時のイギリスでは産業革命の影響により、効率重視の大量生産や消費により粗悪品が多く流通していました。 そこでモリス・マーシャル・フォークナー商会では、室内装飾品(壁紙や染物、家具、ステンドグラスなど様々なもの)についてデザインから始まり製作も一貫して行ない、より良い製品が世にでることのクラフトマンシップの復活を目指しました。 彼らは、教会建築のステンドグラスの製作や、設立の翌年である1862年に行われたロンドン万博博覧会にも出展し、家具や刺繍、ステンドグラスなどの製品を展示したことで複数の受賞という成果を出しました。 そこからまた商会に多くの仕事が舞い込み、家具や室内装飾品をはじめとし、絵画や照明、タペストリーなど様々な製品の製作を行い、商会も国内外に広まっていきます。 教会建築の仕事としては、サウス・ケンジントン博物館(現在のヴィクトリア&アルバート美術館)の中の3室の内装を手がけるという大きな実績も残しました。 商会は丁寧に質の高い製品を作りましたが、それゆえに価格が高くなってしまうというジレンマが生じます。 庶民の暮らしに美しいものを根付かせることが目指すところではありましたが実際のところはなかなか一般庶民には手の届かない製品となってしまっていました。 その後はメンバーの脱退や、ロセッティとの退職金をめぐる討論などモリスにとっても、商会にとっても厳しい出来事が続きます。 1875年には、モリス・マーシャル・フォークナー商会を全て買い取り、モリスの単独経営により改めてモリス商会としての再スタートをはかります。 製品は以前からのステンドグラスが人気はあったが、壁紙などの手頃なものもなるべく扱い、なるべく消費者に身近であることを心がけました。 テキスタイルの制作開始 また、モリス商会になってからは織物のテキスタイルの製作を始めました。 機械は用いても、製品の質を下げずに生産ができたので、モリス商会にとってテキスタイル生産に力を入れた時期になりました。 この頃に作られたデザインがその後も世に残るものとなります。 「アーツ・アンド・クラフツ運動」に発展 1880年代にはモリス商会のような工房が各地に設立され、「アーツ・アンド・クラフツ運動」に発展します。 このようにモリス商会はメンバーの脱退や経営苦難なども途中で経たものの、クラフトマンシップの復活や、「アーツ・アンド・クラフツ運動」への発展の礎を作るという功績も残しました。 モリスの死後も、忠実なアシスタントのヘンリー・ダリルによりモリス商会は存続し、第二次世界大戦の際に一度閉鎖をされましたが、その後テキスタイル会社により買い取られ、「モリス商会」というブランド名で約160年経った現在も、引き続き製品の販売が続いています。

「地上の楽園」モリスの別荘、ケルムスコットマナー

「地上の楽園」モリスの別荘、ケルムスコットマナー

ケルムスコットマナーとは ケルムスコットマナーは、イングランド南部のコッツウォルズにあるケルムスコットという小さな村にあり、ウィリアム・モリスが別荘として使用していました。 1871年にケルムスコットマナーをはじめて見たモリスは「地上の楽園」とも称したそうです。 1570 年頃に建てられもので、歴史的価値の高い建造物としてグレード1の指定を受けています。 モリスが使用するようになってからも、地元で調達した建築資材でこの地方に伝わる建築手法(チューダー様式)で建てられた古い建築の保存にこだわり、この家を真の職人技の作品として愛したモリスは外観を含めできるだけ手を加えませんでした。 コッツウォルズは豊かな田園地帯でもありますが、ケルムスコットマナーは村や周囲の田園地帯と調和していたため、彼は、まるで「土から生えてきた」ように見えると感じたそう。     庭のばら、水辺の柳から生まれたデザイン 庭には楡(にれ)の並木があり、細い野道が柳の木立を抜けて川まで続きます。 ケルムスコットマナー周辺はすぐ南のテムズ川に流れ込む何本かの支流が流れ、柳が見事に生い茂っています。 モリスの次女、メイ・モリスは、父のモリスと小川のほとりを歩いていて、葉を観察し、ウィローバウができたと語っています。 枝の流れや細長い葉が美しい壁紙です。 ケルムスコットマナーの豊かな自然、季節の移ろいを感じられる庭からのインスピレーションにより、数々のデザインが生み出されたとも言われています。   ロセッティとケルムスコットマナー モリスは、師匠であり友人でもあった画家のダンテ・ガブリエル・ロセッティと共同でケルムスコットマナーを借ります。 様々な活動で忙しくていたモリスは、ロンドンにある家で過ごすことも多かったため、ケルムスコットマナーは妻のジェーン・モリスとロセッティが主に使用していました。 モリスがケルムスコットマナーを借りるに至ったことも、世のスキャンダルから自分たちを守るという意図もあったとされています。 3年後にノイローゼなどの理由でロセッティはケルムスコットマナーを去ります。 その後はモリスと妻子たちが屋敷を使用しました。   屋敷の中のこだわり 屋敷内には、妻のジェーンと娘のメイが手がけた刺繍の作品もあり、モリスの寝室の寝台を飾るファブリックにはモリスの詩をモチーフにしたデザインでの刺繍を行いました。 また、モリスの作品の中では壁紙も有名ですが、ジェーンの部屋は「ウィローボウ」という柳をモチーフにした壁紙が使用されています。 17 世紀初頭の家具から、ラファエル前派の画家兼詩人ダンテ ガブリエル ロセッティが選んだ家具のコレクション、そしてモリスが建てたレッド...

印刷工房ケルムスコット・プレスについて

印刷工房ケルムスコット・プレスについて

ケルムスコットプレスとは ケルムスコット・プレスはウィリアム・モリスが「理想の書物」を世に送り出すために作った印刷工房です。 1891年ロンドンに創設されました。 ケルムスコット・プレス設立の元々のきっかけとしては、1888年にモリスが印刷の専門家であるエマリー・ ウォーカーの講演を聞いたことより、印刷についての関心、そして理想の書物を作る目的から設立に至りました。 美しい活字のデザイン モリスにとって理想の書物とは、美しい活字が用いられ、美しい用紙への印刷、美しい装丁での製本がなされることでした。 モリスは理想の書物を作ることに対して非常に徹底しており、縁飾りから挿絵(挿絵の枠も含む)などまで、あらゆる装飾要素をデザインしたり、字間・語間・行間・余白などについてもあらゆる検証を行った上で規則がつくられました。 また、挿絵については友人の画家バーン=ジョーンズの協力も得ます。 ケルムスコット・プレスでの活字は、ゴールデン活字・トロイ活字・チョーサー活字がデザインされました。 モリスの芸術活動の集大成「チョーサー著作集」 1896年に刊行された「チョーサー著作集」については、中世イギリス詩人ジェフリー・チョーサーの著作集であり、ケルムスコットプレスにおける集大成的な作品とも言われます。 豚や羊の皮を使った手漉紙に、バーン=ジョーンズの挿絵やモリス自身のデザインした台扉、縁取り、トロイ活字やチョーサー活字などの装飾文字などが使用されています。 モリスは出版に関して、あくまでも手作業での手引印刷にこだわりました。 晩年のモリスとケルムスコット・プレス 当時のイギリスでは輪転印刷が広まっていた中で、やはり生涯を通して行った手仕事へのこだわりの姿勢がここでも伺われます。 ケルムスコット・プレスでは全53書目、66冊の書物が出版されました。 1896年にモリスはケルムスコット・プレスにて亡くなるのですが、晩年に至るまで美しい書物にこだわり制作を行っていたモリスの情熱をケルムスコット・プレスでの活動を通して感じられます。

ダンテ・ガブリエル・ロセッティの紹介

ダンテ・ガブリエル・ロセッティの紹介

ロセッティとは 1856年にウィリアム・モリスと出会い影響を与えた人物、ダンテ・ガブリエル・ロセッティ。 のちのモリス商会のメンバーでもあります。 ロセッティは1828年にロンドンで誕生しました。幼い頃から美術や文学に関心があり、絵画学校に入学した後、1846年にはロイヤル・アカデミー付属美術学校に入学しました。 1848年3月には、画家のフォード・マックス・ブラウンに弟子入りを志願する手紙を書き、非正式の弟子に入ることを許されます。 しかし、自らがラファエル前派でも反発していた古典的な技法をブラウンが教えることから、ブラウンの元を去ることになります。 同じ頃1848年には、ハントやミレイらの若い画家メンバーたちとラファエル前派を結成しました。 ラファエル前派についてはこちらをご参照ください。 19世紀当時の美術のあり方に異を唱えて活動していたラファエル前派の思想に、その後モリスやバーン=ジョーンズは影響を受け、その後「アーツ・アンド・クラフツ運動」が起こることに繋がっています。 しかし当時のラファエル前派は、ラファエロの名を汚したとして世間からの批判も浴びることが多く、その後のロセッティの作品にはラファエル前派の名を語ることはありませんでした。 公的な展示などを行わないものの、ロセッティの水彩画は売れ行きがよく、美術評論家のジョン・ラスキンにも知り合います。 ロセッティとモリス その後ロセッティは1856年にオックスフォードの学生であったモリスとジョーンズに出会い、オックスフォード大学の学生会館の天井・壁画制作を共に行うなどしました。 ロセッティの作風としては水彩画を扱うことは聖書、アーサー王、ダンテなど文学的な要素を持つテーマで様々でしたが、後期は主にモデルを使った女性画の作品がほとんどでした。 ロセッティは女性関係が派手なことも有名で、作品によく登場するモデルのファニー・コンフォース(妻・リジーの死後間も無くから関係が始まりました)や、モリスの妻のジェーン・モリスとの愛人関係がありました。 特にジェーンをモデルにした作品は数多く、関係も亡くなる頃まで続きました。複雑な関係であったが故に、その後のモリス商会のメンバーからもロセッティは外れることになります。 不倫関係をきっかけに最後は疎遠になってしまったロセッティとモリスでした。 しかしながら、当初は聖職者を目指していたモリスが画家、及び室内装飾などの芸術の道を志すことになったのは、友人のジョーンズやその師匠であったロセッティとの出会いがきっかけでした。 短命であったラファエル前派ですが、その意志を継ぎ「アーツ・アンド・クラフツ運動」が全世界に広まったことは、ロセッティとの出会いやその芸術性が影響していると言えるでしょう。